あと1メートルの辛抱
- 2017.01.29 Sunday
- 23:53
昨日、芥川賞と直木賞の受賞作が決まったというニュースがありました。芥川賞には山下澄人さんの「しんせかい」、直木賞には恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」が選ばれたそうなのですが、ちょうどその日、私は「久しぶりに小説でも読もうか」と、近くの書店に行って、恩田さんの小説に目が留まり、購入し、読もうとしたときに、ネットニュースで受賞を知りました。おそらく今日買いに行けば、帯の「直木賞候補作」が、「直木賞受賞作」に変えられていることでしょう。
住職になる前ですが、私は図書館にある小説を、片っ端から読んでいた時期があって、その時に、恩田さんの作品も何冊か読んだことがありました。その中に、ある仏教説話が唐突と出てくる作品がありました。それは、お釈迦様が、前世にウサギであったときの話しなのですが・・・、
<ある森の中で、うさぎとさるときつねが仲良く暮らしていた。ある日、そこへ、やせ細った老人が現れたので、食べ物をあげようと、三匹はそれぞれ食べ物を探しに行った。さるは木の実を、きつねは川の魚とってきたが、うさぎは何もとることができなかった。そういううさぎを、さるときつねはなじったりからかったりした。するとうさぎは「私を食べて下さい」と言って、火の中に飛び込んだ・・・・。>
本によって、多少違いはありますが、小説の中に出てくる話は だいたいこのような話しでした。
それで、なぜ、この話が小説の中に出てくるかというと、この話が凄く気になっている登場人物がいるのです。
「こんなことがあって、さるときつねはその後どう生きたのだろうか」実はこの登場人物も、同じようなことがあって、さるときつねを、自分と重ね合わせていていたというわけです。
確かに考えてみれば、自分たちが、仲間であるうさぎをなじったのがきっかけで火に飛び込んだのですから、重い罪悪感を背負って生きていかなければならないことになったでしょう。さるときつねは、うさぎをなじっているときは、むしろ「自分は老人のために正しいことをしている」と思っていたと思います。しかし、 うさぎが火に飛び込むことによって、恥ずべき自分の姿に気づかされたに違いありません。そういう意味では、うさぎはまさしく、仏、菩薩としての役割をした、ということになるのでしょう。
私は主人公のうさぎの方に注目がいって、「こんなことは自分にはとても出来ない」と、自分とは次元の違う話にとらえていました。しかし、視線を、脇役の方に向けると、そこに、自分自身の姿を見ることが出来きるのではないでしょうか。この話のような極端なものでなくても、「自分のせいであの人の寿命を縮めてしまった」とか、もっと身近な例でいえば、「あの時は申し訳ないことをしてしまった」と後になって何かのきっかけで気づかされる、ということがあるのではないかと思います。
仏法はまさしく自分の姿を知らして下さる教えです。この話のように、お経の中に、法話の中に、自分の姿があり、そしてそこに救われる道があります。
さるときつねも、仏法を聞き、救われる身となったに違いありません。
新しい年を迎えました。
今朝、いつものように本堂でお参りして、それから、兄が住職を勤める本誓寺の修正会にお参りに行きました。朝8時からの法要に、たくさんのご門徒さんがお参りに来られていました。ご一緒にお経をいただいて、本誓寺前住職の法話をお聴聞しました。
お正月のお参りというと、世間では「自分の願いを叶えてもらうため」とか、「縁起がいいから」ととらえている方が多いかもしれません。でも、浄土真宗は違います。自分の願いではなく、如来の願いを聞かせていただくのです。本当に私を満たして下さるもの、安心を与えて下さるものを明らかにして、それをどうにかして私どもにあたえて救いたいという如来の願いを、法に聞かせていただくのです。
ラジオの番組で、こんな話が紹介されていました。
<正月におせち料理を食べると、子供の頃、父からこんな注意を受けたことを思い出します。「かずのこを食べるときは、カリカリという音をたてて食べてはいけない。カスカスという音で食べなさい」なぜか理由を聞くと、「カリカリだと、借り借りとなって、お金を借りる立場になってしまう。だから、貸す立場になるように、カスカス(貸す貸す)という音をたてて食べなさい」ということなのだそうです・・・>
縁起がいいか悪いかにがんじがらめになったり、自分の願いに振り回されたりしてしまう愚かさを持った私どもです。だからこそ、如来の願いを法に聞いて、生きていくよりどころとしたいものです。